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雅楽と歴史 V
 
 
9,たたりと雅楽

 雅楽の音楽性を考える上で、「たたり」との関連は軽視できないような気がします。
 しかし、宮内庁楽部には、たたりに関する伝承はないかも知れません。なぜならば、自分達の雇主の陰謀にかかわることを、うっかり口に出来ないからです。だから、雅楽の精神性を語るのに「夜道で笛を吹きながら歩いていたら盗賊が襲うのをためらった」というような言い方で、荒ぶる心を鎮めることが出来ると説明するのだと思います。

 平安京の遷都に前後して、4人の皇太子と皇后・妃の都合6人の皇族が殺害されています。関連して公家も暗殺されたり処刑されたりしていますが、公家の死者はたたりの内に入っていません。
 6人のたたりがあるわけですが、その中の筆頭は桓武天皇の弟の早良親王のたたりです。 陰謀というのは、天皇の後継をめぐる公家らの権力争いです。当時の名門は、大伴、橘、紀、藤原四家などあり、それぞれ天皇家に妹や娘を嫁がせていました。娘の夫が天皇になることを画策し、皇太子の座を得ようとします。
 座を奪われる側の皇太子は、罪をでっち上げられ捕らえられ毒殺されますが、早良親王だけは毒殺を嫌ってか飲食物を口にせず、無実を訴えながら餓死したとのこと。
 桓武天皇の陰謀であったという説もありますが、自分も担ぎ出された天皇であるため、発言力がなく弟を見殺しにした、と解釈した方が順当に思えます。しかし、弟は兄を怨み、たたりの対象になります。
 阿部晴明が当時の人々であれば鎮めることが出来たかもしれませんが、時代がだいぶ離れております。

 たたりを恐れる人は多かったでしょうが、解決方法に雅楽を思いついたのは、桓武天皇の第二皇子(後の嵯峨天皇)の妻橘嘉智子であろうと推理します。
 桓武の後を継いだ第一皇子の平城天皇は、在位3年で譲位し弟の嵯峨天皇が後を継ぎます。
 この時点で、嘉智子は夫に願い出て、たたりを鎮めるのに加持祈祷でダメなら歌舞音曲でと申し出たと思うのです。二人の間には正良(まさら)親王(後の仁明天皇)がおり、母としては息子を護りたいわけですから。
 嵯峨天皇は「新曲の作曲を奨励した」とのことで、雅楽には関心があったようですが、「奨励」という言葉には積極性が感じられません。自ら進んでするのではないし、命令しているわけでもありません。妻にせっつかれて「まあやってごらんよ」、くらいの感じです。
 それでも皇后は檀林寺という寺を建てます。嵯峨野にある檀林寺ですが、元は天龍寺のところにあり、足利尊氏が吉野で亡くなった後醍醐天皇のたたりを恐れて、供養のため天龍寺を建てるに当たり移築したとのこと。
 檀林寺は、学問の道場として建てられたといいますが、この言葉には巾があります。私は雅楽の研究のために建てられたと思います。宮中の儀式で使われる雅楽を改作するとなれば、天皇の承諾を得ているとはいえ、皇后の立場で進められることを快く思わない人もいたことでしょう。
 ひとは橘皇后を檀林皇后と呼んだといいます。この呼び方を誉め言葉と解釈するか、揶揄(やゆ)と解釈するかで寺の意味合いが変わってきます。私は後者だと思います。「御所を離れて何をやっているんだろうね」という気持ちで見ていたのではないでしょうか。
 
 やがて、正良親王が仁明天皇になったとき、大々的な雅楽の改革が始まるわけですが、宮中で研究は出来ないわけで、檀林寺で母の下準備があったからすぐに取りかかれたと思うのです。
 楽器が整理され、使わない楽器は正倉院の倉に納められます。さらに、楽器を作り替えて音色を追求します。音律つまりドレミファは中国の音律のままですから、作曲編曲はそれほど無理はないと思うのですが、音色はまるで違いますから、楽器の試作には年月を要したのではないかと思います。竹も、切ってすぐ使えるわけではありませんし。
 さて、仁明天皇も担ぎ出された人ですから、何をするにも後ろ盾が必要です。橘皇后と仁明天皇をバックアップしたのは藤原北家の冬嗣、良房父子でした。以後、藤原北家は他家を押さえて、平安朝の権勢を手中にすることになります。
 仁明天皇は桓武天皇の孫ですが、桓武から数えて5代目です。陰謀があったり、病弱だったりなどして交代が多かったのです。
 仁明天皇は在位17年、45〜7才程で病死します。雅楽はまに合わなかったのです。母は悲しみのあまり2ヶ月後に亡くなったというのも、失意の思いが大きかったということでしょう。

 それから15年後(863年)に、ようやくたたりを鎮めるための御霊会が施行されます。早良親王をはじめとする、怨みを残して亡くなった皇族6人の鎮魂の儀式です。
 雅楽が奏され、稚児による唐舞・高麗舞が舞われたとのこと。
 子供の舞は童舞(わらべまい)と言って、「迦陵頻」と「胡蝶」の2曲しかありません。おそらく、この舞が日本で作り替えられた最初の舞であり、この御霊会のために作られたものに違いありません。
 私は、この二つの舞が「つがい」で舞われるものだと聞いたときから、幽界と天上界を意味するものだろうと思っておりました。そして、早良親王のたたりを鎮める儀式で舞われたという記録を読んだとき、やはりと思ったのです。
「迦陵頻」はその名の通り天上界を象徴しています。「胡蝶」は昆虫の蝶であり、蝶や蛾は死者の霊が宿ると言われるように、幽界を象徴します。
 それを、あえて子供に舞わせるのです。子供は無邪気というように、邪気がないので神霊が憑依しやすいとのこと。つまり、子供に怨霊を憑依させて天上界へ送ろうという願いなのです。
 この御霊会には「金光明経一部」と「般若心経」が講じられたといいますが、それまでの加持祈祷でおさまらなかった怨霊も、子供の無邪気さに心を動かされたと見てよいのではないでしょうか。
 雅楽はこのようにして神霊を鎮める音楽として、儀式で使われるように作られて行ったのだと思います。
                        2004.2.15

 
10 管楽器の天地人
 笙は別名鳳笙といって鳳凰を型取ったというのは周知のところでしょう。天上界の鳥ということで、笙は天を象徴します。南国には鳳凰のモデルであろうと思われる鳥がいるそうで、鳴き声も笙の音に近いとか。日本では蝉の声をモデルにしたという人もいます。
 篳篥は人の声に近いとのことで、なつかしい響きに感じる人も多いようですが、うめき声に似ているといって気持悪がる人もいます。何とはなしに、人の深層心理を呼び覚ます性質を持った音色かもしれません。
 龍笛は龍の鳴き声を表すとのこと。龍は地と天の間を駆けますが、地に住んでいます。中国に於いては大河を龍と呼び、地下水を伏龍(ふくりゅう)といいます。水は水蒸気となって天に上がり、雨となって降って来ます。それが龍という姿で神格化されたのでしょう。龍笛の声=水の音=龍笛の音色?難しいですね。
 この天地人の三管が揃って雅楽になります。

 楽曲的には、篳篥が主旋律、龍笛が副旋律、笙が和音を受け持っています。座席は、上座から笙、篳篥、笛であり、奏者の左を上座とします。
 演奏者にとって、この位置が互の音を耳にする上で具合がよいのですが、天地人の解釈にも叶っているのでしょう。文で書くときは天地人ですが、実際には地の上に人がおり、人の上に天があります。
 この座席は楽器の上下であり、人の身分とは関係ありません。ただ、琵琶は天皇が奏き、箏は皇后が奏くのだと聞いております。

 宮廷楽師は儀式にたずさわるのが仕事ですが、公家の雅楽はどうだったでしょうか。公家は詩歌管絃を趣味教養にしており、雅楽の技量は楽師と同等だったようです。
 漢詩を作り和歌を読むのも神への祈りがありました。言霊(ことたま)信仰として文学もまた音楽と同様に祈りの気持ちが根底にあったわけです。
 祭政一致の時代のことですから、宮中神事は人心を統一するための政治でもあったわけです。
 蒙古襲来の時、武士が戦っているのに公家は祈っているだけだったといいます。これは非難すべきことではありません。戦うのは武士の仕事であり、祈るのが公家の仕事だからです。
 公家が、神々とともに遊ぶことを忘れ、自分達だけの遊びになったとき、政治も乱れることになります。

 日本の芸術は、音楽、文学、美術、造園等、いずれも祈りの要素を持っておりました。ヨーロッパの芸術も古くは宗教と結びついていました。近代になって芸術は宗教から独立するようになったのです。
 雅楽も欧米の影響を受けて、劇場における鑑賞音楽として親しまれるようになりました。 この頃は、ソロ活動をする人もあり、習う人も「合奏は興味がない、ソロで吹いてみたい」という人もいます。ソロ用の曲も作られたりして、新しいジャンルが出来るのも時代の流れかも知れません。
 古典物を追求したい人も沢山いるわけで、雅楽本来の良さが広く知られるようになれば、それも結構なことです。
                             2004.3.14

 
11 高松塚古墳の主は誰
 梅原猛著「黄泉の王」を読んで異論をとなえてみたくなりました。もちろん雅楽と関連がなければ書きません。
 梅原先生は該当者を、大津皇子と弓削皇子の二人にしぼった上で弓削皇子であろうと説きました。
 梅原説をかいつまんで説明します。
一、天皇か皇子などの身分の高い人であるこ  と。
二、何らかの理由で殺害されたこと。
三、怨霊鎮めの埋葬であること。
四、死亡年代は西暦700年前後であること。 などの解説があり、該当しない人をはずして行くと弓削皇子が残り、万葉集の歌なども引用して、この人に違いないとの主張です。
 そして最後に、「弓削皇子であるという点については可能性が高いとしかいえないと思う。」と記しています。
 私も可能性を追求し、大津皇子であろうと推理します。
 なぜなら、死亡年代と古墳が造られた年代を結びつけることは出来ないと思うからです
。過去に埋葬された骨を、また埋葬しなおすということが有りえないと言えるでしょうか。
 大津皇子は二上山に墓があるわけですが、
その墓を調べてみなければ、そこに骨があるとは言い切れないでしょう。
 「もがり」という風習がありましたが、それは死者を埋葬して白骨化するのを待つ期間を意味します。
 死体が腐敗して行く間は「けがれ」であって祀ることが出来ないという信仰があり、白骨になれば「けがれ」が終わって「喪あがり」になる。骨を掘り返してきれいに洗って埋葬しなおすとのこと。
 大津皇子も別の所から二上山に移されたといいますから「もがり」が行われたわけです。 この「もがり」ですが、親族が二年三年、長ければ五年も喪に服していて、政務に出仕しないことから薄葬令が出されたといいます。 持統天皇が火葬されて以後、皇族の火葬が続くようになったとのことですが、もがりを短くして白骨にならないうちに掘り返すならば、火葬が必要になることでしょう。
白骨にして埋葬しなおす風習は日本だけではないようです。
 オーストラリアから東京芸大に留学して笙を習っていた学生に「もがり」の話をしたところ、オーストラリアの原住民は、死者をハンモックのような網の袋に入れて木につるし、白骨になってから土に埋める風習があった、と語りました。
 火葬について余談をします。今どきの火葬で荼毘(だび)を想像出来ないでしょうから。 私は北アルプスの登山口の村で生まれ、村の青年から山小屋でアルバイトをしたときの話を聞きました。
 戦後ではあしましたが、遭難者をヘリで運ぶのは困難な時代でしたから、死体は現地で荼毘に付します。ドラマで見るでしょうが、材木を井桁に組んで死体を乗せて焼くのです。 親族や友人らが集まります。親族に遺髪が渡され火が着けられます。
 やがて、アルバイトの青年一人を火の番に残して、皆は山小屋へ戻ります。
 朝まで燃すのですが、黒焦になるだけだと言いました。
 林の中に穴を掘って埋め、石を積んでケルンを造ります。人が訪れることは二度とないのです。ケルンは苔むし、暗い林の中、薮の中にひっそりと立っているだけです。

白虎

 話を元に戻しますと、骨を埋めなおす習慣があるならば、一度埋めなおしが済んだら二度と移し替えないと言えるでしょうか。
 次に、弓削皇子の死亡年代です。699年7月21日死亡で、文武天皇の即位が697年とのこと。つまり、文武天皇が即位して2年後に弓削皇子が亡くなっているのです。
 弓削皇子の死に謎があるとはいうものの、大津皇子の死とはあきらかに違います。
 大津皇子は、父天武天皇の死から一ヶ月以内に謀反の罪ありとして処刑されます。これは、大津皇子に後を継がせたくない持統天皇の陰謀だと言われています。
 持統天皇の子の草壁皇子が皇太子になっていたにもかかわらず、大津皇子に皇位が継承されそうな情勢にあったのです。
 天智天皇と天武天皇は兄弟ですが、一説によると二人は父親が違い、天武天皇の方が二歳年上だといいます。母は大海人皇子(天武)を連れて舒明天皇の皇后となり、中大兄皇子(天智)を生み、夫の死後女帝となったというのです。
 ところが、大海人皇子の父に関しては記録がとぼし過ぎます。
 私は、天武天皇の父方は新羅系ではないかと思います。そして、天智天皇の方は百済系なのです。
 半島で新羅と百済が争ったように、日本においても渡来系の人達による勢力争いがあったと見るべきではないでしょうか。
 大津皇子は父の期待もあったようですが、新羅系の人達がバックアップしたのでしょう。皇子と共に処刑された人に、新羅沙門行心(しらぎしゃもんぎょうしん)という人がいます。これによっても新羅系がバックとは考えられないでしょうか。
 天智天皇は自分の娘達を次々と大海人皇子の妻にします。それは、天智天皇には男子が少なかったため、もし自分の死後、大海人皇子に皇位が移ったとしても、自分の血筋が残るように考えたのではないでしょうか。その意志を継いだのが持統天皇ということになります。
 だから、大津皇子以後、天武系の皇子達に不幸が続くのです。

 宮内庁楽部の豊英秋先生からお聞きした話を記します。
 豊家の先祖は大津皇子に始まり、皇子から何代か後に豊原姓で楽師として宮廷に復帰したとのこと。「大津皇子は持統天皇の陰謀で殺された」と仰って怨みの気持がおありのようでした。豊の一字になったのは明治からで、それまでは豊原姓だったとのことです。
 今も昔のことを怨みに思う人がいるのですから、当時災があれば「たたりだ」と言い立てる人もいたことでしょう。
 草壁皇子は病弱だったようですが、皇太子でありながら皇位を継ぐこともなく、父の死後三年足らずで亡くなります。これを「たたり」と言わないはずはないでしょう。

 梅原先生は、大宝律令と古墳の絵を結びつけています。しかし、日月、星宿、四神の図が儀式の装飾に使うように法令化されたからといって、それ以前に使われることはなかったと言えるでしょうか。
 私は、40年も画家の道を歩いた人だから言わせてもらいます。「法律で使うことに決めたから、描きなさい」と言われても、何の資料もなしに描けるものではありません。描ける画家がいたから公式化出来たのです。
 壁画の元になっている思想と絵は中国に始まり、高句麗や百済の古墳にも描かれているとのこと。白村江の戦以後、百済や高句麗からの亡命者が多数渡来しており、同行した楽師の子孫は今も楽家として続いています。
 絵師もいたと思うのが順当であり、彼等の技術を眠らせておくはずはありますん。絵を見たから、それを公の場にも使うことにしよう、となるはずです。
 だから、古墳の絵は大宝元年以後に描かれたであろう、とは言えないと思うのです。

 梅原先生は、万葉集に弓削皇子を追悼する歌が多いことを取り上げておられますが、私は逆です。
 和歌には鎮魂のはたらきがあると言われています。供養が足りないから歌で供養し、人々の心に故人の怨みを思い起こさせてやろう、と願うわけです。「供養の足りないこの人ぞ哀れ」と歌ったのではないでしょうか。
 高松塚の名の由来は、その塚に松が一本植えられていたからとのこと。そして、弓削皇子の松を歌った和歌とを結びつけています。これについては私も異論の言いようがありませんが、悔しまぎれに言うならば、我家の墓にも松の大木が一本生えております。

 推理はドラマであり、学説ではありませんのでお許し下さい。  
                             2004.12.13

 
12.高麗楽が由来不明の由来
 伝えた楽家が続いているのに、由来は不明というのは腑に落ちません。
 高麗楽を伝えたのは、高句麗から渡来した狛(こま)姓の人達であり、楽家の芝家・上家・窪家の祖であることは知られております。狛姓の人達が伝えたから「こま楽」と呼ぶのは納得出来るとしても、なぜ「高句麗楽」ではなく「高麗楽」なのかが疑問です。
 関東にある高麗(こま)神社は、日本に亡命した高句麗王を祭神としているというのに、なぜ高麗神社なのか。
 高句麗という言葉をことさら伏せようとしているとしか考えられません。
 誰が、何のために。
 それは、当事の天皇家が高句麗に関して知られては困ることがあったのです。
(A) 高句麗の人達はいつ渡来したか
 天智天皇のとき、朝鮮半島で「白村江の戦」というのがありました。唐が朝鮮半島へ進出するために、新羅と組んで高句麗と百済を攻めました。日本は百済へ援軍を送ったのですが、白村江の戦で唐軍に敗れます。
 このとき、百済からの亡命者を(数千人ともいいますが)日本の軍船に乗せて連れ返ったとのこと。
 百済の人達は優遇され、貴族は政府高官になって唐に対する防衛のための築城と律令国家の形成に従事します。宮廷に仕えていた楽師や絵師や職人なども同行したことでしょう。 そして、百済が敗れてから5年後、高句麗からも王を始め多くの亡命者が来ました。
 高句麗王を迎えた天智天皇は、自分の姓を名乗ることが出来ません。
(B) 天皇家の祖が朝鮮半島にいた頃
 天皇家の祖は高句麗王の出城を治める王でした。姓をイニシアルでKといいます。
 高句麗は国名を何回か替えていますが、いずれも高(こう)という姓の王が治める国でした。この話は、高句麗の前の抹余国と称していた時代の話です。
 Kは抹余王の一族ではなく、かつて中国の殷の紂王に仕えており、殷が周に代わったときに抹余国に来て抹余王に仕えることになりました。何代か後に、出城の平壌城主が空席になったとき、城をまかされて王の位をもらいます。
 平壌は抹余王の離宮だったとのことで、平壌が高句麗の主都になったのは、中興の祖高朱蒙が国名を高句麗に替えたときからです。高句麗の前身はツングース系の狩猟民族ですから、古くは山岳地滞が本拠地だったのです。 Kが平穣の城主だった頃、抹余の支配下にあった豪族が独立しようとして反乱を起こします。豪族の名はソシモリといい、<8.舞楽「そしまり」>で記したとおりです。
 このソシモリを成敗に出向いたのがKであろうと私は推測します。ソシモリの領地は、平穣の東方の日本海沿岸に続く地域ですから。 これが高天原のスサノオ追放劇だと思うのです。高天原は北朝鮮ということになります。 時代が移り、中国で秦王朝が滅び漢王朝が出来た頃のこと。
 漢は蒙古(匈奴)を攻め、蒙古の一部族が追われて平穣城に亡命します。ところが、蒙古の族長は恩を仇で返し、王を追放して城を乗っ取ってしまいます。
 追われた王の行方は不明です。
 この、平壌城を追われたKという王こそ天皇家の先祖ではないかと、私は推理します。 日本へ渡ってニニギノミコトと名乗ります。そして、ソシモリことスサノオノミコトの造った出雲王朝に対し、過去の身分を口実に国穣りを要求したのです。
(C) 高句麗王が渡来しました。
 高句麗王が自国の歴史を語り、日本へ渡った人達のことを語り、などして天皇のルーツがわかったならば、天皇が国穣りを要求される立場になってしまいます。
 高句麗の神話を記します。
 「天帝の息子が三種の神器を持ち、衆三千を率いて白頭山に降り立った‥‥‥」
 三種の神器とは、剣・鏡・鈴(鈴のかわりに曲玉という説もあるという)、白頭山は北朝鮮と中国の国境にある最高峰、そして土地の豪族(神話では河の神)の娘を妻にして国を造った、と続きます。
 蘇我政権を倒したばかりのときに、このような話をされては困ります。
 結局、高句麗王は一亡命者として扱われることになります。
 人々は関東に送られて、駿河・相模・甲斐・下野・常陸・上総・下総などに分散されます。そして50年後、今の埼玉県飯能市に土地が与えられて集められます。1800人ほどの人達が未開地を開墾して暮らすことになり、高麗(こま)郷と呼ばれます。
 高句麗王は死後祭神となり、王の子孫が宮司を務めているとのこと。神社名は高麗(こま)神社、祭神は高麗(こま)王若光(じゃっこう)となっています。
 高句麗とは言わせないのです。
 韓国では、高句麗と高麗を同一に呼ぶことは絶対にありません。存在した時代も、治めた地域も、王家の血筋も全然違うのですから。 高句麗から同行した楽師は、奈良に住居を与えられ、興福寺の楽人として仕え、やがて宮廷楽師となって今日に至っているのはご存知のとおりです。
 しかし、「こま楽」の由来や高句麗の話を語ることは許されなかったのです。

 天皇が雲の上に居て欲しいと願った時代は終っていますので、氏族としてのルーツを探ってもよいのではないでしょうか。
 日本の歴史をしるために。
                           2005.2.9