
5 還城楽と韋后の乱
「唐の玄宗皇帝が韋后(いこう)の乱を平定して、夜半に帰城したとき夜半楽(やはんらく)と還城楽(げんじょうらく)を作ったといわれている。一名を見蛇楽(けんじゃらく)といい、蛇を好んで食べる胡人がこれを見つけ捕らえ喜ぶ姿の舞ともいわれている」 宮内庁楽部雅楽公演曲目解説より
韋后の乱て何だろう、どうして胡人の舞なのだろう、と思ったのです。

則天武后は、高宗が病気になると政治を執り、高宗が死ぬと中宋が即位したが、間もなくこれを廃して弟睿宋を立てて別殿におき、政権を握った。
武后が死ぬと中宋が復位。
中宋の皇后韋氏は、寵臣との不義の露見をおそれ夫の中宋を毒殺、子の殤帝を立てて政権を握ろうとする。これを韋后の乱という。
李隆基(のちの玄宗)が韋后の乱を平定、韋后を殺して父睿宋を立てる。2年後、玄宗が即位(21歳)。楊貴妃が登場するのは玄宗60歳のとき。
戦の後、夜半に帰城して、休みもせずに作曲したのかと思ったのは私だけだろうか。たぶん帰城したときの思いを兵達の誰かが曲にしたということでありましょう。
胡人というのは特定の国や民族のことではなく、中国の北方や西方や南方の外民族を総称してそのように呼んだとのこと。だから、従軍した兵の中に外民族が参加していたのでしょう。そして、戦勝の喜びと蛇を捕らえたときの喜びとをダブルイメージして舞にしたのでしょう。
しかし、蛇を好んで食するのがどこの民族かは別の研究が必要です。
蘭陵王に関しては中国での研究が進んでいるようで、かなりはっきりしています。『陵王が率いた部族は、鮮卑・匈奴・柔然・勅勒(ちょくろく)などの諸民族による胡人部隊であった』とのこと。 蘭陵王の曲には沙陀調音取というのが付いています。沙陀は沙陀族のことで、敦煌の北、ハミのあたりに居住する西突蕨(とっけつ)の一部が沙陀突蕨と呼ばれていたとのこと。
鮮卑・匈奴・柔然・勅勒は、モンゴルと先祖を同じくするツングースの系統であるといいます。蘭陵王の一族は鮮卑族であるとのことで、陵王の胡人部隊は漢民族から見た胡人(外民族)であって、陵王側としては同民族の別部族ということになります。
ついでに記します。
高句麗は高朱蒙が分家から本家へ婿養子になったときに国号を変えたのであり、それ以前は夫余(ふよ)と号し高氏を名乗る鮮卑族の系統です。
蘭陵王は高粛が本名で、長恭は別名で、一族は高氏です。そうなると、高朱蒙と蘭陵王は同族で、鮮卑族の高氏ということになります。
さらに、隋の煬帝も鮮卑族であるとのこと。
ついでに記すならば、平安時代の初期に書き改められた近畿地方に住む役人の人別帳の中に、楊隻忌寸という名があり、隋煬帝の後遠と記されています。煬帝は農民の反乱で殺されていますから、王子達は始皇帝の皇子らのように船で黄河を下り、日本へ亡命したと考えられます。
話を元にもどし、中国の民族と音楽の関係を考えますと、中国は漢民族だけの国ではなく、幾多の民族が共存したり争ったりしながら、音楽においても併存したりミックスしたりしながら存在していたと考えられます。
漢民族にとっての異民族支配は、元と清の時代だけではなかったのです。
漢という字は河を意味します。銀河のことを銀漢というように。そして河は黄河です。豊かな黄河の流域を支配したくて外民族が侵入したり、家臣として仕えているうちに主家を倒して支配者になったり、あるいは無事に共存したりしていたのでしょう。
そのようなわけで、玄宗が率いた兵の中に外民族がおり、彼らによって還城楽が作曲され舞われた故に胡人の舞というのでしょう。
2003.2.16
6,舞楽新靺鞨(しんまか)と高句麗の神話
「靺鞨国(沿海州にあった国)より渡来し、礼拝舞踏をあらわしている。この高麗を経てわが国に伝わったという説と、白河天皇(1072〜1086)の御時、勅命により藤原俊綱が作舞したという説がある。」宮内庁楽部雅楽公演曲目解説より
ツングース族の中に靺鞨(まっかつ)七部族というのがあり、中でも鴨緑江流域に住む粟末(ぞくまつ)靺鞨とアムール河流域に住む黒水(こくすい)靺鞨が知られています。
黒水靺鞨は樺太から北海道へ渡り、本州まで南下したエゾと呼ばれるアイヌと同族の縄文人のようです。粟末靺鞨の一部は朝鮮半島を南下して九州に移り住んだとのこと。
中国の殷から周の時代の朝鮮半島は、夫余(ふよ)というツングース系鮮卑族の王朝が支配していました。ツングースの中でもモンゴルに近い騎馬民族のようです。半島の北部が本拠地で、半島は王族や豪族が分治していました。
夫余国は黒水靺鞨とは折合いが悪く、粟末靺鞨と親交がありました。つまり、日本の天孫族とエゾは大陸に居たころから折合いが悪かったのです。
夫余国が高句麗国に名を変えたころの話です。
高句麗の始祖高朱蒙の父は高慕漱(こうぼそう)といい夫余王朝の分家の王でした。あるとき王は西方の粟末靺鞨の国、?婁(ゆうろう)国へ旅に出ます。?婁の王を神話で河伯(水神)といいます。
高慕漱は河伯の娘と結ばれて子を授けたのち帰国します。生まれた子が高朱蒙です。七歳にして自ら弓矢を作り、百発百中したといいます。
そこで気を回したのが本家の国人です。
高朱蒙の父の領地は半島の東の付け根あたりで、母の?婁国は半島の西の付け根あたりです。本家の直轄地はその中間北部ですから、間に挟まれて危険を感じたのでしょう。
高朱蒙を殺しに兵を出します。少年高朱蒙は家来に守られ、母とともに父の領地へ逃れようとします。そして、鴨緑江まで来ましたが橋は無く、追手は迫ってきます。
高朱蒙は水に向かって言います。「我は天帝の子にして河伯の外孫なり、今、逃走するに追うもの近づいていかにせん」ここに於いて、魚鼈(ぎょべつ、魚とすっぽん)浮かび出でて橋となり、渡ることを得たり。
父の領地で成長します。
本家の王に後継がなく、王の娘婿となって国名を高句麗と改めます。少年時代の高朱蒙を殺そうとするほど同族間が離反していたわけで、国名を変えて結束をうながしたのではないでしょうか。BC37年のことです。
中国が唐の時代になった頃、唐は陸路で高句麗を攻め、海路で百済を攻めます。新羅は唐に味方して百済を攻めます。日本から百済へ援軍が向かいます。
しかし、白村江の戦いで日本軍は破れ、百済は滅びます。663年、天智天皇のときです。続いて668年、高句麗が滅びます。
675年、新羅は百済を併合して朝鮮全土を支配します。そして日本へ入貢を望み使者が度々来朝しますが、日本側は冷淡であったようです。一方、百済と高句麗の亡命者は多数受け入れ、特に百済の知識人や技術者は優遇されたとのこと。高句麗王若光とその一党は関東に高麗(こま)郷を与えられ、王は高麗神社の祖となります。高を名乗る子孫と同行した人達の子孫がいるわけです。
靺鞨の?婁国は高句麗滅亡後、高句麗の遺臣と力を合わせ唐の勢力を押しのけて渤海国(ぼっかい)を立てます。698年のこと。そして、727年に日本へ使者を送って以来200年ほど国交が続いたとのこと。この渤海国を新靺鞨(しんまか)と呼んだのでなないでしょうか。
渤海国は半島の北部に勢力を広め、かっての高句麗領を含め現ハバロフスクのあたりまで治めていました。
渤海から日本へは、現北朝鮮の北端の港から日本海を渡って敦賀へ着くルートがあったようです。
やがて唐との国交も行われるようになり、奈良から平安時代にかけては、唐と渤海が国交の相手だったわけです。
高麗(こうらい)の建国は、唐も渤海も新羅も滅びてからのことですから、解説文の「高麗を経てわが国に伝わった」というのは疑問に思います。そして、唐楽・高麗楽という呼び名が出来たという平安時代の当時には高麗という国はまだ出来ていません。
半島より雅楽を伝えたのが「狛(こま)氏」だから狛楽が高麗楽になったのかと思ってみるのですが、高麗はコーリアであり、なぜコマと読むのか知りたいと思います。馬をコマと言いますから騎馬民族をコマと言ったのかと考えたりします。
903年、菅原道真(59歳)没
907年、唐滅ぶ
916年、契丹国が出来、926年渤海国が滅ぶ。
918年、高麗の建国、935年新羅滅ぶ。
以上靺鞨族関連でした。
2003.3.7
7,楽器「阮咸」あれこれ
バンジョーに似たこの楽器は、竹林の七賢の一人阮咸(げんかん)という人の考案したものだということは、知るひとも多いでしょう。
竹林の七賢は三国志の時代の魏の国にいた人達です。
竹林とは竹の林ではなく、居酒屋をそのように呼ぶのだとのこと。彼等七人は、中央にいれば大臣になれる身分だそうで、それをあえて地方の長官になっているのだといいます。出世を望まないのではなく、中央にいては命がいくつあっても足りない時代だったようです。
曹操の子の曹丕(そうひ)が魏の初代皇帝になったのですが、父に似ず気の小さい人のようでした。
その例は、詩人として有名な弟の曹植(そうしょく)との「七歩の才」の故事で知られています。弟の才能をねたみ、七歩あるくうちに詩が作れなかったら首をはねると命じます。
このような主人には仕えずらい人もいますから、中央政界を離れ地方に下る人も出てくるわけです。
居酒屋で天下を語り、酔えば詩を吟じ、琵琶を弾いたりします。そして楽器まで作る人がいたということでしょう。
中国には陸沈(りくちん)という言葉があり、隠者の生き方を言うのだそうで、竹林の七賢もその中に入っています。
太公望や諸葛孔明は、国の創始者に見出だされた人ですが、別の時代だったら陸沈になっていたかもしれません。
阮咸は楽器とともに名を残したわけですが、彼の人柄や知識に隠者としての魅力があったことでしょう。
七賢の一人、?康(けいこう)という人は、政治批判が権力者の耳に届いて殺されてしまったとのこと。
曹丕が皇帝になって以後、45年で魏は滅びます。その間に皇帝が5人も交替するのですから、いかに不安定だったことか。
このような時代に邪馬台国は魏と交流があったわけです。しかし、比べてみますと、中国ではすでに沢山の記録が残されているのに、日本では卑弥呼も邪馬台国も、他国の記録に頼るしかないのです。
記録を残すことがいかに大切かと思うのですが、今のように出版物の多い時代は、残すべきものを選択できるだろうかと心配になります。
2003.5.10
8,舞楽「蘇志摩利(そしまり)」あれこれ
「高天原(たかまがはら)を逐(お)われ、新羅に渡られた素戔鳴命(すさのうのみこと)が曽尸茂利(そしもり)というところで大雨に会われ、青草で作った簑笠で雨を凌(しの)がれた故事を基にしてできた舞と伝えられています。」宮内庁楽部雅楽演奏会曲目解説より
この解説を読んで、はてな、どうなっているのかなと思いました。高天原が朝鮮半島のどこかでないと、この解説はピンとこないのです。
スサノウノミコトと新羅のソシモリとは関連性がないと説く学者もいますが、宮内庁楽部の解説が関連づけているのですから、あながち否定はできないでしょう。
高句麗の歴史を記した「桓檀古記(かんだんこき)」の一説を引用します。
「豆只(ずし)州の?邑(わいゆう)に謀反あり、その酋長の素尸毛犁(そしもり)を斬らしむ。孫に陝野奴という者あり、海上に逃れて三島に拠り、天王を潜称す」
新羅の北方に?(わい)という国があり、夫余王朝の王族が治めていました。邑は「むら」という場合が多いですが、諸侯の領土という意味もあります。人の名前が地名になったり、地名が人名になったりする例はよくあります。
三島(さんとう)は三神山(さんしんざん)ともいい、古代中国において東方海上にあって仙人の住むという三つの山を想定したものであり、日本列島がその島に該当していました。
僣称(せんしょう)とは「かってに身分を越えて上の称号を自称すること」高句麗の支配者には、天皇、天王、天帝などの表記があります。半島での野望を失ったソシモリことスサノウあるいはその子孫は、三島を支配して天王を自称したわけです。
解説中に新羅とありますが、それは物語の場所を示すためであり、当時はまだ新羅という国は出来ておりません。くわしい年代は定かではありませんが、高句麗の前身の夫余王朝の時代であり、B・C3〜4世紀の頃と思われます。
その頃、日本列島にスサノオ王朝が出来たことになります。
2003.9.15
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