| 雅楽と歴史 T |
1、誄歌(るいか)の解説に異議あり
倭健命が亡くなったとき、后や御子たちが墓を作り、『田にはい廻って泣きながら』という解説に疑問を持ちました。墓を離れて『田にはい廻る』のはなぜだろうと。
古事記を開いてみました。やはり、『田にはい廻る』と書いてあります。歌の意味は、『稲幹(いながら)に廻りつく野老蔓(ところづら)のようだ』であり、后や御子たちの泣く姿が野老蔓のようだと歌っているのです。
こうなると、古事記の本文そのものに問題があるのではないか、ということになります。古事記が書き替えられているであろう、という説はありますし、政治的意図はもちろん、風俗の解釈においても時代感覚で書き替えられると思うのです。
年表を調べてみます。倭健命の時代に稲刈りをしていたとは考えにくく、稲穂を摘み取っていたはずだと思うからです。平安時代『841年、大和宇陀郡の人、稲を干すに稲機(いなはた、はさ)を用う、これを諸国に用いしむ』とあります。
やはり、倭健命のころは稲を刈らずに穂を摘んでいたのです。だから、稲の幹に野老蔓がからみついているのです。
当時の貴人の埋葬風習は、一度土に埋め、後日白骨を掘り起こしてきれいに洗い、立派な御陵に埋葬し直したとのこと。だから、后や御子たちの作った墓は土饅頭であり、その廻りにとりついて泣く姿が、稲幹にまとわる蔓草(つるくさ)のようだ、となるのです。
おそらく、古事記の本文を書き替えたのは江戸時代の学者でありましょう。彼らの判断する稲田にしてしまったのです。
野老蔓(ところづら)は、野老(ところ)蔓(かずら)であり、別名おにどころ。
葉茎共にヤマイモに似ているが、根は苦く堅くて食せない。芋に生えた白く長い根を老人のひげに見立て、海老(えび)と共に正月飾りとし長寿のしるしとした。

長寿のほかに、蔓が長く伸びることから転じて長く久しいという意味が含まれ、野老蔓のように長いこと墓に取りすがっていた、という掛け言葉になります。
2、 子守歌のしょうの笛
子守歌の主人公について考証してみます。
時代は明治、大正。子守をしているのは女の子。小学校へは3年しか行かせてもらえず、子守奉公に出されます。多少でも給金がもらえるのはもう少し年上で、それなりの職場へ行くのですが、子守に給金は出ません。親とすれば、食べさせてもらえるだけでよいのです。
娘は里の村祭りの日に休暇がもらえるのを楽しみに、他家で暮らしています。当日の朝、主人が娘を呼んで巾着(きんちゃく)に手を突っ込み、小銭をつかんで娘に与えます。今の金額ならは、100円玉を大人が片手でつかむ程の量です。
娘はそれを手ぬぐいに包み、ふところに入れて着物の上から両手でおさえ、落とさないように気を付けながら家路を急ぎます。
なぜ村祭りの日かというと、村人の最大の娯楽であるのはいうまでもありませんが、子供がおもちゃを買えるのはその日しかないのです。村にはおもちゃを売る店がないのです。
娘は、主人にもらった小銭を親に渡します。親は喜び娘を誉めます。その一言で一年の苦労が癒されます。親は「これで飴でも買いな」とか言って200円渡します。
娘は昼食を済ませて神社へ行き、お参りをし、にぎわいの中を歩いて出店のおもちゃを買います。でんでん太鼓としょうの笛。今の金額ならば一つ100円です。100円ショップと思って下さい。
それを手にすると奉公先へ急ぎます。日が暮れないうちに戻らなければなりません。
でんでん太鼓は赤ん坊ににぎらせ、しょうの笛は「わたしが吹いてあげるからね」と言って吹きます。赤ん坊のみやげは口実で、本当は自分が吹きたかったのです。どんな笛であれ、赤ん坊に吹けるはずはありません。
2000.05.16
3,雅楽が沢山作曲された時代
宮内庁楽部の公演パンフレットから、雅楽の作曲された年代を集計してみましたら、平安時代初期の仁明(にんみょう)天皇の時代に多く作られているのを知りました。
『雅楽への招待(小学館)』の東儀俊美先生の解説にも仁明天皇のころから100年ほどの間に雅楽の名人が沢山輩出したことが書かれています。
時代背景が気になるのです。怨霊鎮めと雅楽と関係があるのではないかと。
私が雅楽を習い始めたとき、雅楽は喜怒哀楽を超越した音楽ではないかと思いました。私が習ったのが笙であったため、なおさらそのように感じたのかもしれません。
笙の和音は不協和音であり、メイジャーともマイナーともつきません。曲には盤渉調というマイナーの調子があるのですが、笙の和音は、ことさらマイナーになるわけではないのです。なぜそのような表現を求めたのかと思います。
王朝文学の精神は『あわれ』であり、滅び行くものに対する憐憫(れんびん)の情だといいます。この憐憫の情は、敗者を客観的に見ているだけでなく、自分が滅ぼしてしまった相手に対する「恐れ」と「鎮魂」の思いが込められています。
この心は、縄文以来、民間に伝わる祈りの心であり『たたり』として恐れてきたものです。
『まつり』とは「まつろわぬものを、まつろわしめる」のだそうで、荒ぶる神や、たたりなす霊にお鎮まりいただき、幸をもたらしてくれるように祈る信仰だとのこと。
『たたり』は「手垂り」で、霊界から手を垂れて悪事をなすという解釈だそうです。祓(はらえ)といって身の「けがれ」を神様に祓っていただき、芸能を奉納して「たたりなすもの」にお鎮まりいただきます。
仏教と混合して、成仏を祈ることにもつながって行きます。やがては、天台、真言の密教による調伏追善の修法、つまり加持祈祷も行われるようになります。
「たたり」も「あわれ」も強者の理念ではありません。敗者の理念です。しかし、たたりにおびえ鎮魂を祈る人も、出世欲には勝てず、目の前の栄誉に手を汚すことになるのでした。
早良(さわら)親王のたたり
早良親王は桓武天皇の同母弟で、桓武の皇太子になっておりました。
桓武天皇は、奈良から平安京に移る前に長岡京に遷都しようとして、藤原種継(式家)に指揮をまかせました。種継はそれだけ天皇の信任があったわけで、ねたみに思う人もいたことでしょう。種継は暗殺され、種継と対立していた皇太子の一派のしわざに違いないと疑われます。
天皇になるのを約束されている人が謀反もないもので、皇太子の座をねらう一派の陰謀に違いありません。
早良親王は幽閉され都から追放されることになりますが、無実を抗議して飲食物をとらずにおり、都から移送の途中で衰弱死したといいます。遺体は淡路国に運ばれ埋葬されます。
さてそれからというもの、数年の間に桓武天皇の皇后や夫人らと生母の死があい続きます。また、疫病の流行、洪水など災害もあります。さらには、新皇太子安殿親王の病気が長びきます。
陰陽師は、早良親王のたたりであると言います。桓武天皇は、神に祈り仏にいのり、淡路の早良親王の墓に使者を遣わして陳謝します。しかし、祈願の甲斐もなく皇太子妃藤原帯子が急病死します。
桓武天皇 は、ついに長岡京を断念し、平安京に都を定めます。
しかし、それで異変が治まるわけではありませんでした。大暴風雨によって新京に被害が出ます。天皇は、これも早良親王のたたりと恐れますが、天皇にはほかにも心の痛みがあったのです。
父光仁天皇のとき、皇太子は異母弟の他戸(おさべ)親王でした。親王の母(皇后)は井上内親王といって先帝の娘です。年上の桓武が皇太子になれなかったのは、母の身分が低かったからです。
事件が起こりました。井上皇后が誰ぞを呪詛したと疑われ、皇后と他戸親王は幽閉され、皇后と皇太子の尊称を剥奪されます。そして、1年半ほど後に二人は同時に死去したとのこと。
兄の山部(やまべ)親王(後の桓武天皇)(37歳)が皇太子になります。山部親王の夫人には、藤原良継(式家)の娘と良継の弟百川の娘の二人がなっております。ところが藤原百川は、その4年後に急死します。(48歳)その翌年が桓武天皇の即位でした。
桓武天皇は、それやこれやで心を痛め、亡き人達の供養をします。井上内親王の皇后号を旧に復し、早良親王には崇道天皇の尊号を追贈します。淡路国の墓に、公卿・陰陽師・僧らを遣わして陳謝します。
それでも天皇の気持ちは晴れず、病気になります。無実と思いながら見殺しにした罪の呵責もあるのでしょう。苦しみの後、「崇道天皇の冥福を祈れ」と遺言して亡くなります。
平城天皇(安殿親王)が即位します。皇太子には平城天皇の同母弟賀美野親王(後の嵯峨天皇)が立ちます。
その翌年、桓武の第三王子伊予親王に謀反ありとの理由で、母藤原吉子(南家)と共に幽閉され、二人は共に毒を飲んで死にます。毒殺でしょう。幽閉されていて毒が手に入るわけがありません。生かしておけば、一派の反撃があるかも知れませんから。
翌々年、平城天皇は在位3年で譲位し、旧都奈良へ帰ってしまいます。
嵯峨天皇が即位し、異母弟の大伴親王(後の淳和天皇)が皇太子に立ちます。
その翌年、奈良において平城天皇の愛人薬子らによる謀反ありとのことで、薬子は自殺。兄の藤原仲成(式家)は処刑されます。
嵯峨天皇の夫人橘嘉智子(かちこ)(30歳)が正式に皇后になります。天皇の即位後6年もたってからのことです。二人の間には正良親王(後の仁明天皇)がおります。桓武天皇がたたりに悩まされて亡くなったときには、正良親王が生まれていますから、母としては我が子にたたりがないようにという願いは大きかったことでしょう。
嘉智子は、嵯峨天皇の離宮(後の大覚寺)の近くに檀林寺を建て、学問の道場にします。そのために檀林皇后と呼ばれます。
学問とは、仏教や道教など伝来の学問でしょう。雅楽はというと、宮中に雅楽寮(うたまいのつかさ)の楽人がいました。
嘉智子の思いを察するならば、雅楽はそれまで外来色の濃い『にぎわい』の音楽ではなく、邪気を祓い神霊を招き、日本人の信仰と結びついた『たましずめ』の音楽でなければならなかったことでしょう。そのためか否か、夫の嵯峨天皇も新曲の制作を奨励したといいます。
外来のものが日本化するためには、何かのきっかけと、リーダーシップをとる人と、ブームというような時代の要求がなければ可能にならないのです。
虚弱だった嵯峨天皇は在位14年にして譲位し、淳和天皇が即位します。皇太子に正良親王が立ちます。
正良親王は藤原良房(北家)の妹順子を妻にし、道康親王(後の文徳天皇)が生まれます。
淳和天皇は在位10年にして譲位し、仁明天皇が即位します。(推定28〜30歳)。翌年、藤原良房が参議に出世します。良房が頭角を現し始めました。
仁明天皇即位の翌年が承和(じょうわ)元年(834)であり、雅楽の「承和楽」はこの年号によります。そして、この承和年間に沢山の雅楽曲が作曲されたり、移調されたり、この頃渡来の曲も改作されたりしています。 仁明天皇も「西王楽」を作曲しているとのことで、天皇の雅楽好きもありましょうが、はたしてそれだけだったのでしょうか。母の願いを国家事業として着手したのではないかと思うのです。
前記の東儀俊美先生の解説には、左方、右方を分けたこと、楽器編成を三管二絃三鼓にしたこと、調子を六調子にまとめたことなどが書かれております。大変な仕事が仁明天皇によって始められたことになります。
たぶん、天皇をとりまく若い公家達と楽人達によって始められたのではないでしょうか。神社の祭儀式の元になっている延喜式がまとめられたのが延喜年間の913年で、仁明即位から80年後です。雅楽がまとめられたのもそれと平行しているのでしょう。
仁明天皇の在位もわずか17年ですが、在位中に父嵯峨上皇が没し、その2日後に『承和の変」という事件が起こります。皇太子になっていた淳和上皇の子恒貞親王一派に謀反の疑いありと知れて、皇太子は廃され、支持者の橘逸勢(はやなり)は処刑、一派のものは流罪になります。
皇太子には仁明の子道康親王が立ち、その直後に藤原良房が大納言に昇進します。それから数年のうちに良房の娘が道康親王の妻になり、惟仁親王(後の清和天皇)が生まれます。
「承和の変」も皇太子を交代させるための陰謀に違いありません。
仁明天皇が病気になってしまいます。亡くなる2年前に年号が変わっていますから、平癒を願ってのことでしょう。しかし、病気は重くなり亡くなります。推定45〜47歳。嘆き悲しんだ母嘉智子は、2ヶ月後に後を追うようにして亡くなります。
文徳天皇が即位し、子の惟仁親王(後の清和天皇)がわずか2歳で皇太子に立ちます。しかし、文徳天皇は在位8年(31歳)で急死してしまい、10歳の清和天皇が即位します。
それから5年後、朝廷によって盛大な御霊会(ごりょうえ)が神泉苑でなされます。崇道天皇を始めとする怨みを残して亡くなった人達への鎮魂の儀式です。雅楽寮の楽人による演奏と、公家や良家の稚児による唐舞、高麗舞が奉納されたとのこと。
朝廷といっても天皇は15歳ですから、このとき太政大臣になっていた藤原良房の裁量でありましょう。清和天皇の母明子は良房の娘ですから、やがて良房は天皇の摂政となります。
これが野望と鎮魂の図式であり、故に雅楽は喜怒哀楽を超越した華やかさになったのではないでしょうか。そして、笙の音色は、幽界から天上界へ「たゆたい昇る」響きが求められたのだと私は思います。
祭典楽としての「越天楽」と、宴会楽としての「越天楽」に何の違和感がありましょうか。雅楽の分かる人は、葬儀には盤渉調の越天楽を奏します。しかし、平調の越天楽であっても違和感はありません。この不思議さが雅楽であり、喜怒哀楽を超越してこそ可能なのです。
伎楽は、面も踊りも喜怒哀楽を露骨に表しています。言い換えれば、すなおに誇張的に表現しています。伎楽は、神々でさえこっけいなほど誇張的です。このようなコミックは、心はずむときに見れば楽しかろうけど、心沈むときに見れば空しいのです。
昔の人は、心沈むとき、心痛むとき、自然の中に癒しを求めました。日本人の暮らしは、物質的にも精神的にも自然の恵みに依存していました。美しい音もまた、自然の音を模して作られたのです。
雅楽の音は、鳥の声であり、虫の声であり、風の音であり、寄せては返す波の音です。外来の音楽の中から鳥の声を探し、楽器の中に虫の声を求め、楽曲の中に波の反復を見つけようとしたのではないでしょうか。
楽器をセレクトし、さらに手を加えることを考え、使えるフレーズを組み合わせて曲を改作し、それを元にして作曲もしたのではないでしょうか。舞楽も同様な方法で組み合わせによる作舞がなされたと思うのです。
古来、雅楽の作曲者は大勢いたようですが、モーツアルトとかベートーベンといった個人の仕事ではありません。どの人も皆、『雅楽』を作曲していたのです。
2002.3.8
4,蘭陵王という人
「北斉の蘭陵王長恭という美青年の武将が仮面をつけて戦に臨み、周の大軍を破った故事により作られた曲といわれています」−−宮内庁楽部雅楽公演曲目解説より。蘭陵王が戦ったのは、隋王朝が出来る17年前の話です。三国史の時代が終り、王らが天下を競う乱世となりました。その過程で、黄河流域の王達は北朝を称し、揚子江流域の王達は南朝を称しました。
北朝には皇帝を名乗る王が二人おりました。周の王と斉の王です。周は紀元前1000年ほど前に出来た周王朝の再現であり、斉は周王朝配下の王国でした。
周王朝が力を失ったとき、大名らが天下を競う日本の戦国時代と同じ状態になりました。老子や孔子のように精神的な国造りを説く人も登場し、孫子のように軍師として王の片腕になる人も登場します。
蘭陵王面
長く続いた戦国時代を終わらせたのは秦国の王であり、始皇帝と名乗ります。始皇帝と雅楽は深いかかわりがあるので少し記してみます。
始皇帝の政治は苛酷であったため、農民の反発をかっており、始皇帝の死とともに一揆が起きます。大名らも立ち上がります。そして、始皇帝の死後4年にして秦王朝は滅びます。王族らは農民の仕返しを恐れ、日本に亡命します。秦の主都は黄河上流の咸陽(かんよう)でしたから、おそらく船で黄河を下りそのまま海を渡ったのでしょう。
楽家の東儀家は、聖徳太子の側近の秦河勝(はたのかわかつ)を祖とすると東儀秀樹氏のホームページに書かれています。
秦河勝は秦の始皇帝の末裔と言われており、秦のつく地名、京都の太秦や神奈川県の秦野などは秦朝末裔の住んだ所と言われています。字は違っても羽田孜元首相も始皇帝の末裔だそうです。始皇帝の王子は20人もいたとのことですから、日本のあちこちに大勢の末裔がいることでしょう。
時代は秦から漢になり、三国史の時代になり、そして蘭陵王の戦った南北朝の時代になりました。このとき周の都は長安であり、斉は周王朝の主都であった洛陽を都にしています。
中国で洛陽が都だった時代は長く、日本で京都へ行くのを上洛と言いますが、洛陽へ行くのを上洛と言っていたのです。
だから、洛陽を奪還しなければ天下に示しがつきません。兵を出して洛陽を包囲します。この有様を中国の学者の研究から引用します。 古書より「蘭陵王は,芒(ハオ)山の戦において、わずか五百騎で十万の周軍包囲陣に突入し、洛陽城を解放した」
中国の都市は城壁で囲まれていますから、敵も直ぐには攻められません。蘭陵という地方の出城から援軍が向かいます。ほかの出城からも来たことでしょう。しかし大軍を前にして攻めあぐねます。
恐ろしい面をつければ勝てるというものではありません。私は地図を見ながら考えました。これは義経の鵯越(ひよどりごえ)ではないかと。

芒山は洛陽の南側にあり、洛陽の北側は黄河です。周軍は洛陽と芒山の間に布陣したに違いありません。芒山に登れば敵陣を背後から見下ろすことになります。一気に山を駆けおり突入すれば五百騎でも攻められるかも知れません。
ふいを突かれた敵はおどろきます。後の山は見れば土煙が上がっていてどれだけの兵が続くのかわかりません。一角が崩れて逃走する兵が出れば、他の兵らも連鎖反応でくもの子を散らすように四散してしまいます。
見たように言いますが、あり得ることなのです。
中国の学者の研究によると、蘭陵王の兵は自国の兵だけでなく近在の少数民族の兵なども加わった混成軍であったとのこと。蘭陵王の少ない兵でさえ混成であるのに十万の大軍が混成でないはずはありません。「史記」や「三国史」でも十万二十万の大軍が一瞬にして四散してしまう例はあるのです。
「兵隊に入れば、とりあえず食える」という人もいるわけで、負け戦とわかれば逃げ出します。ついでに記すならば、このような状態になった場合は、軍を指揮していた王は、単身でひたすら馬を走らせて城へ逃げ帰ります。自分の部下に首を取られ、敵方へ恩賞として差し出される恐れがあるからです。事実、そのような例もあったのです。
周軍を指揮していたのは将軍でしたから、敗軍の将の首を取っても恩賞になりません。しかし、この敗軍の将が天下を取ることになるのですけれど。
洛陽城においては、戦勝祝賀会が催されます。このとき「蘭陵王入陣曲」が作られ舞われたとのこと。当初の舞は、戦闘を模した動きの激しいものであったようです。それはそうでしょう。蘭陵王の戦いぶりを見た人達が舞うのですから。
唐の時代になると、優美な舞が好まれるようになり蘭陵王の舞も軟舞(やわらかな舞)に編入されたとのこと。日本に伝えられたのは唐の時代であり、それが今日まで伝わっているのです。私は、もっと躍動感が欲しいじれったさを感じていたのですが、そのようなわけでした。
さて、斉の国ではやがて皇帝が代替わりし、蘭陵王のいとこの高緯が皇帝になります。
新帝高緯は猜疑心の強い人で、蘭陵王の人気が高まっているのをねたみます。そして、宴会に招いて毒殺してしまいます。そのとき蘭陵王は30歳、勝利をおさめたときから10年後のことでした。
蘭陵王には弟もおり、叔父達もおりましたから、二代皇帝は翌年廃されるのですが代わりがおりません。結局周軍に攻められて蘭陵王死後3年にして斉は滅亡(577年)します。
これで周が安泰というわけにはいかなかったのです。斉を攻めた周の将軍楊堅(ようけん)は、勢いに乗って中国全土を平定し隋を建国して文帝となります。斉の滅亡から4年後です。
隋の2代目が煬帝(ようだい)ですが(ようてい)といわず(ようだい)というのは民を苦しめたため軽べつして呼ぶとのことです。この煬帝のときに遣隋使として小野妹子が使わされており、蘭陵王の死から30年ほど後のことです。ちなみに、蘭陵王が毒殺された年に日本では聖徳太子が誕生しています。
隋は唐と並んで日本に多大な文化をもたらしたのですが、 煬帝の大運河建設は農民に大きな負担となり、農民の反乱によって煬帝は殺され隋が滅びます。聖徳太子の存命中に隋が生まれ隋が滅びているのです。
このような目まぐるしい変遷の中に蘭陵王の活躍と短い生涯があったのです。蘭陵王の墓は現存し、中国の人たちに祀られているとのことです。
2002.12.5
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